2015年1月22日木曜日

阪神・淡路大震災20年

 あの日から20年がたちました。

 遅くなりましたが、20年に際して、書き残しておきたいと思います。

 当時は職員寮として三宮のマンションの1室を同僚で同期の薬剤師の子と2人で住んでいましたが、あの日、ものすごい揺れで隣の部屋のその子がはね起きて、私の部屋に来て、2人で布団をかぶって揺れがおさまるまで耐えていました。部屋の中、台所はあらゆるものが倒れてめちゃくちゃになっていました。

 外に避難しようとしたらドアがひしゃげて開かず、中から叫んで、同じビルの人に外からドアを蹴破ってもらって、パジャマの上から毛布を羽織り脱出しました。10階建てのマンションでしたが、2階のエレベーターの入り口が上からの圧力で少し開いているのを見てゾッとしました。

 外はまだ暗かったのと、コンタクトレンズをつけられなかったので、ぼんやりした街灯の明かり(しばらくは点いていたと思います)で見回すと、同じように毛布をかぶった人達が公園に避難しようと歩いていました。
 異様な静寂と土埃。別世界のような光景。でも妙に冷静だったのを思い出します。平常心を保とうとしていたのだと思います。

 翌日、東神戸病院・薬局に出勤し、次つぎと運び込まれる患者さんの調剤に無我夢中でした。当日だけで64人の方が病院で亡くなりました。
 三田市の親戚宅に避難し、そこから病院に通い、野戦病院のようになっているなかで、毎日必死に従事しました。

 こういう惨事を2度と繰り返してはならない。17日午前5時46分、魚崎の追悼式で犠牲になった方々に誓いました。

 4年前には東日本大震災が起きましたが、建物の耐震化、津波・土砂災害対策など、犠牲者を出さないために自然災害への備えを国・自治体が総力を挙げておこなわなければいけません。
 兵庫県がその役割を果たすよう、力を尽くします。

東灘区魚崎地域の追悼式(1月17日早朝)

 もう一つ、どうしても言わなければいけないのは、これまでも書いてきましたが、地震では助かった命がなぜ失わわなければいけないのか、なぜ苦しまなければいけないのか、ということです。

 震災後相次いだ自殺や孤独死。
 被災者が住む復興住宅の孤独死は昨年も40人。仮設住宅のときから累計すると、1097人に達したといいます。
 生きる希望を持てず、仮設、復興住宅とバラバラにされて入居し人との絆を断ち切られた多くの人たち…。
 いままた、行政から突然「入居期限だ」といわれ、多くの被災者が終の住み家であるはずの借り上げ復興住宅から退去を迫られています。
 こんなことがあっていいのでしょうか。

 震災直後、「生活再建は自力で」と国が公的支援・個人補償を拒否したため、被災した人たちは本当に希望を失いました。
 何とか自力で、つまり借金で住宅・営業を再建した人たちを襲う返済の苦しみ。今も続いています。

 被災者の粘り強い運動の中で災害被災者に現金給付する被災者生活再建支援法が98年に成立し、その後の改正で住宅再建に300万円出るようになりましたが、阪神・淡路の被災者は対象外とされました。

 一方、「創造的復興」の名のもとに国、県、神戸市などは、神戸空港建設や大型バース、高速道路、新長田駅南の巨大再開発などを巨額を投じておこないました。

 こうした復興の歪み、誤りによる悲劇は人災であり、「政治災害」ともいうべきものです。
 阪神・淡路の負の教訓として絶対に忘れず、今後の災害でくり返させないことが必要です。

 15日には、神戸、西宮両市議団とともに上京して、堀内照文衆院議員とともに、国土交通省と内閣府に、借り上げ住宅追い出しをやめさせること、災害援護資金返済免除の拡大を要請しました。

 20年に当たり、阪神の教訓を機会あるごとに訴えるとともに、被災して今も苦しんでいる方々のために引き続き全力を上げる決意を新たにしています。



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